早稲田神社

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早稲田神社について・日本のしきたり / 2020.02.10 更新
「建国記念の日」早稲田神社建立

日は少しずつ長くなり、この頃は夕方になっても明るいですね。春の兆しです。
というのに、ようやく冬が来たかのように寒いです。
そして世の中明るいニュースはあまりないようですが、2月は祝日がひとつ増えたのでちょっと嬉しいですよね。
こういうときのお休みは、本当に有難いものです。のんびりとお過ごし下さい。

ここ早稲田神社の境内から、健やかな時間をお祈りします。
みなさまいかがお過ごしですか。早稲田神社通信です。

2月11日は「建国記念の日」です。
「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として、1966年に定められ、翌年から祝日とされました。
日本の初代天皇である神武天皇が即位したとされる日に由来しています。

今回は、建国にちなんで、早稲田神社の建立について紐解いてみたいと思います。

「早稲田神社 建立」

神社に残されている古文書には
『文亀三年工事を起し、爾来数年にして通常平地を一変し、一小丘を作り、永正八年九月十五日、ここに神霊を安置せり。よって今に至るも、「垚八幡宮」又は「垚の宮」と称す』とあります。

今から517年前の1503年、安芸の国の守護職である武田氏が、見立山に「神田神社」を、早稲田山に「早稲田神社」を建立したと伝えられています。(神田神社は宇品埋立地に氏神社の無い所から一町村一氏神の政府方針もあり移転)
8年の歳月をして、1511年9月15日完成。またの名を「垚八幡宮」又は「垚の宮」という。

要約すれば以上のような内容ですが、要所を詳しく説いてみます。

・安芸国守護 武田元繫

日本の戦国時代の武将であり、安芸武田氏の九代目当主。安芸国の守護です。
智勇に優れた武将で、全盛期には「中国の項羽とも並ぶ武勇の持ち主」と恐れられたといいます。
元繫は、安芸の佐東(現在の安佐南区)銀山城で生まれました。安芸武田氏は守護代的立場で、佐東郡・山県郡・安南郡(現在の安芸郡)を治めました。

「武田」の起因は、56代清和天皇の孫である経基(つねもと)から源(みなもと)の姓を賜り、次第に勢力を拡大していきました。それから5代を経て、甲斐国市河庄(現在の甲府盆地底部に位置)武田郷に居を構えたことから「武田」を名乗るようになりました。

・早稲田神社 起工

この武田元繫が、本拠地である銀山城の東北にあたる鬼門の位置として、太田川をはさんで対峙している牛田の神田山(見立山)と早稲田山に神社を勧請することにしました。
鬼門は、鬼が出入りするといって万事において忌み嫌われる方角の東北の位置を指し、不吉な方位とされていたためです。武家が群生を誇る時代に、災難を避けるために鬼門の方角に神社仏閣を祀ったり、祈祷したりする風習が広まりました。

1503年。まず神田山に「神田八幡宮」を創建。武田の先祖の地、甲斐の国から八幡神を祀りました。さらにこの年、牛田早稲田の地に工事を起こし、平地に小高い丘を築き、ここに八幡宮の社殿建築を開始。
1511年9月15日奉斎。「早稲田八幡宮」と命名されました。

完成までに約8年もの歳月を費やしたのは、早稲田山の斜面を削って境内地を平地に造成し、さらにその上に土を盛って丘を造り、本殿を祭祀する場所を決めるなど、実に大掛かりな造成工事を要したためです。

早稲田神社の別名を「垚の宮」「垚八幡宮」と称するのはこうした由来からです。垚(あげ)とは、土を三つ重ねた文字で、土を盛って小丘を作ったことを表す文字とされています。

・八幡宮 守護神

元繫は、牛田の地に二つもの八幡宮を建立しました。
八幡が武勇の神であることから、八幡は源氏の氏神として武家の崇拝が深かったため、平安を祈り源氏方の守護神である八幡神を祀り、武田氏の守護神として祀られたのではないかと考えられています。

新型ウィルスが、生活や経済、果ては風評被害といった人の尊厳まで脅かしています。
前回、節分の頃は1年の中で陰から陽へと秩序が最も変わる日とされ、このような日には鬼や魔物が現われると書きました。
「鬼」の由来は、目に見えない邪気のこと。災害、病、飢饉など、人間の力を超えた恐ろしい出来事は鬼の仕業と考えられていました。
昔の人の信じることに、頷くことも多いです。
この機会に、皆さまどうぞ早稲田神社へお越し下さい。はらい切れなかった鬼をお祓いして差し上げましょう。